岩屋軍記
筑前叢書目録編集者江藤正澄(1836〜1911)
百六巻目の岩屋軍記である。
高橋紹運 ( たかはしじょううん) 筑前を守る大友氏の柱石
?−1586 戦国時代末期の武将。高橋家9代家督。父は 大友庶家 大友家 加判衆(かばんしゅう) 吉弘 鑑理(あきただ) 。母は不詳。通称孫七郎、初名 鎮理(しげただ) 、のち 鎮教(しげのり) と改名。主膳兵衛尉。『
大友家文書録 』は主膳正。 剃髪(ていはつ)して紹運と号す。
永禄12年(1569)豊前 小倉(こくら)城
に移封を命じられた 高橋 鑑種(あきたね) の跡をうけて、岩屋
宝満(ほうまん)両城の城主となる。「 大友吉弘氏系図 」では翌元亀元年(1570)のことという。天正14年(1586)島津氏に攻められ戦死。没年齢から天文17年生まれか。
〈高橋家を継承〉
吉弘氏は大友庶家 田原氏 の分流であるが、南北朝末期には将軍家 小番(こばん)衆 の一人として重要な地位を占めていた。紹運の父鑑理は、大友家加判衆の一人で、 戸次鑑連(べっきあきつら) 臼杵 鑑速(あきはや) と共に三老に数えられ、 立花 鑑載(あきのり(とし)) 誅伐後の 立花城城督となるが元亀2年(1571)病没。紹運は鑑理の次男。妻は 斎藤 鎮実(しげざね) の妹。子に 高橋 統増(むねます) と立花家を継いだ
立花 統虎(むねとら) がいる。
岩屋城跡・高橋紹運の墓 の地図と写真
「嗚呼壮烈岩屋城」を吟題としての漢詩
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