徐福伝説と史実について
(drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-34.htmlから抜粋)
一 中国側::「史記」等古文書から
1「史記」秦始皇本紀(前二一九年)
齊人徐市等上書言、海中有三神山、名曰蓬莱、方丈、瀛洲、僊人居之。 請得齋戒、與童男女求之。
薺の人徐市ら書を上って言う、海中に三神山あり、名づけて蓬莱、方丈、瀛洲と曰い、仙人これに居る。請う、斎戒して、童男女と之を求むることを得ん。
2「史記」秦始皇本紀(前二一二年)
徐市等費以巨萬計、終不得藥。
徐市ら費すこと、巨万を以て計うるも、終に薬を得ず。
方士徐市等入海求神藥、數歳不得、費多、恐譴、乃詐曰:
「蓬莱藥可得、然常為大鮫魚所苦、故不得至、願請善射與倶、見則以連弩射之。」
『方士徐市ら海に入りて神藥を求む、數歳得ず、費え多し、譴められんことを恐れ、乃ち詐りて曰く:
「蓬莱の薬得べし、然れども常に大鮫魚の苦しむ所と為る。故に至ること得ぎりき。願わくは善く射るものを請いて与に倶せん。見われなば、則ち連弩を以て之を射ん。」
3「史記」淮南衡山列傳
又使徐福入海求神異物。還為偽辭曰: 『臣見海中大神、言曰: 「汝西皇之使邪」 臣答曰: 「然」 「汝何求」 曰: 「願請延年益壽藥。」 神曰: 「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」
即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰: 「宜何資以獻」 海神曰: 「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」 』 秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
「また徐福をして海に入り神に異物を求めしむ。還りて偽辭をなして曰く: 『臣海中に大神と見える。言いて曰わく: 「汝は西皇の使か」と。 臣答えて曰く:
「然り」 「汝何を求むや」 曰く: 「願わくは延年益壽藥を請う。」 神曰く: 「汝秦王の禮薄し、觀るを得るも取るを得ず。」 即ち從いて臣東南蓬莱山に至り、芝成宮闕を見る、使者あり銅色にして龍形、光上って天を照らす。是において臣再拜して問いて曰く:
「宜く何を以って獻に資すべきや」 海神曰く: 「令名男子若しくは振女と百工之事を以てせば、即ち之を得ん。」 』 秦の皇帝大に説び、振男女三千人を遣わし、之に五穀の種、種百工を資して行かしむ。徐福平原廣澤を得、止りて王となりて來らず。」
4「漢書」 列傳 カイ伍江息夫傳第十五
伍被(一世紀)
又使徐福入海求仙藥、多齎珍寶、童男女三千人、五種百工而行。徐福得平原大澤、止王不來。
「徐福をして海に入り、仙薬を求めしむ。多く珍宝・童男女三千人、五種・百工を薺して行かしむ。徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来らず。」
5三國志「呉書」呉主權(一世紀)
亶洲在海中、長老傳言、秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬莱神山及仙藥、止此洲不還。世相承有數萬家。
「亶洲は海中に在り、長老傳えて言う、秦始皇帝、方士徐福を遣わし、童男童女数千人を率いて海に入り、蓬莱神山及び仙薬をもとめしむ。亶州にとどまりて還らず。世々相承けて数万家あり、」と。
6釈義楚「釋氏六帖」(又名「義楚六帖」)五代後周・顕徳元年(九五四)成立
日本國亦名倭國、在東海中。秦時、徐福將五百童男五百童女、止此國、……又東北千餘裏、有山名富士亦名蓬莱……徐福至此、謂蓬莱、至今子孫皆日秦氏。
「日本國またの名を倭國は、東海中にあり。秦の時、徐福五百の童男、五百の童女を將いて、此國に止る、……また東北千餘裏に、山あり、名づけて富士、また名づけて蓬莱……徐福ここに至り、蓬莱という、今に至って子孫皆秦氏という。」
二 考古学的発見と伝承から
徐福が実在したかどうかについては史記の記述は信憑性の高いものだといわれてきました。そして、現代中国で一九八二年の地名調査の時、で琅邪に徐福村(現徐阜村)が発見され、その実在性は疑う余地がない段階まできています。この徐阜村には古くから徐福廟があり、彼が日本に渡航して帰らなかったのでこれを偲んで建てられたという言い伝えがあります。また、その地に残っている家系図には「徐福村」、「後徐福」「徐福河」の地名が見られますが、しかし「徐」のついた姓は見あたりません。
これは徐福が採薬に失敗して帰らないために始皇帝による一族皆殺しを恐れて「韋」、「劉」、「王」に名前をかえたと言い伝えられているのです。方士徐福については『史記』(秦始皇本義)・『漢書』(伍被伝)や『後漢書』(東夷列伝)といった中国の歴史書に登場しますが、これまで伝承の域を出ませんでした。それがここにきて、初めて徐福渡来を考える上での、大きな足掛かりが出てきたのです。現在までの中国側の広範な歴史研究による追跡調査で、徐福は実在した人物として確認されただけでなく、中国本土(江蘇省)に本
籍地まで発見さたのです。
三 日本側::伝承されたもの古文書と伝承
徐福が日本にやって来たかどうかは文献学上や考古学上、その証拠が見つかっていません。しかし、徐福渡来伝説のある佐賀県では、吉野ヶ里をはじめ数多くの中国の影響が見られる考古資料が見つかっています。日本と中国間にはかなり交流があったようで、始皇帝の圧制を逃れて日本に渡来した可能性は考えられます。
有明海上陸と「天山の童男丱女岩」について
『肥前州古跡縁起』によりますと、秦の始皇帝の命を受けた徐福が、 不老不死の薬を求めて童男童女七百人をつれ、海流に乗って筑後川 の河口、現在の佐賀県諸富町寺井の津に着いたというのです。
筑後川の河口といえば地理的に有明海沿岸ですが、九州渡来説 の多くがここに集中しています。
あたかも徐福の大船団が有明海に入り込み、次々に上陸したとい う様で、たとえば同じ佐賀の早津江川の河口にも上陸伝説が残されています。 ここでは徐福一行が盃を浮かべて上陸地点を占ったというので、
「浮盃」の地名があり、さらに上陸して佐賀市の北方にある金立山 を目指して進む途中、潟地に足を取られるため千反の布を敷いてそ の上を歩いたというので、そこを「千布」というようになったとい
う地名伝説が残っています。 上陸に際して易を立てたり占うということは、当時の徐福らのお かれた状況と考え合わせると、至極当然な手順と思われます。
しかも上陸して進むのに千反の布を敷いたということは、地理的に も地質学的資料からみても頷けることで、 現在の佐賀市周辺は先史時代、満潮時には海面下となり、干潮時
でも有明海沿岸特有の潟地であったといわれており、そこを歩いて 進むなどということは、まず不可能であったろう。 潟地というのは、いわゆるヘドロ状の湿地帯であり、どうしても
板状のものを敷いて踏み渡って行かざるをえなかったはずです。
徐福は上陸地点からそう遠くない金立山中の金立山神社の縁 起としても祭られています。 佐賀県から有明海沿岸に沿って福岡県に入ると、八女市山内というところに童男山の古墳といういうのがあり、ここには、漂着した
徐福ら一行の童男童女を助け出したという伝説が残っていることで 有名です。 焚き火をして、難にあった彼らをすべて蘇生させたという伝承に 由来する興味深い行事も、毎年地元の小学生らが中心になって行われています。
ここは地理的には海岸から二十キロ内陸に入った地点にあり、そこより北方に位置する筑紫野市天山の山腹には童男童女の岩と 呼ばれるものがあります。これは徐福が渡来したとき一行の船をつなぎ 止めたという伝説に由来します。 ここも有明海沿岸から内陸に五十キロ程はいった地点になる。 このように伝説にいう上陸地点や伝承遺跡の位置関係を纏めて書 いてくると、どうしても不可解な点に気付かざるを得ません。 それは上陸地点が余りにも海岸から内陸部に入り込んでいることです。
この点については、九州大学工学部の真鍋大覚助教授が地質調査で古代の九州の地形について発表。「博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた」「福岡平野,筑紫平野は海底
にあり、福岡地方は群島だった」 「島原半島は雲仙岳をいただく大 きな島だった」という調査内容で、もし古代において博多湾と有明海がつながっており、海岸線が現在よりずっと内陸部にあったことを考えれば、伝承されているすべての「徐福」上
陸地点は古代の九州北部の地形図にみごとに符合します。 これで逆に「徐福渡来伝説」の中の「上陸地点についての正当性」が証明される事になると思われるのです。
真鍋代覚助教授 一九二三年五月二十三日生まれ 九州大学工学部航空工学助教授
極長周波動の解析による地質調査
筑紫野市宮地岳西麓標高160.9m 3500年前の北部九州 弥生時代の北部九州
筑紫野市歴史資料館 「ちくしの散歩」56天山の烽火場より
文化5年(1808)8月15日、オランダの国旗を掲げた軍艦が長崎港に入ってきた。実はイギリスの軍艦フェ−トン号であったのだが、だまされて出迎えたオランダ人はたちまち捉えらえた。この人質と交換に食料と燃料を奪い取ったイギリス軍艦は、長崎奉行とオランダ商館長を尻目に悠々と立ち去っていった。その直後、長崎奉行松平康平は引責自殺、長崎警備当番の佐賀藩も家老数名が切腹、藩主鍋島斉直は謹慎処分になった。これが有名なフェ−トン号事件である。
この年、長崎奉行はロシアの接近に備え、急報の手段として烽火台の準備を黒田・鍋島の両藩主に命じていた。佐賀藩では、長崎の烽火山で揚げる烽火を肥前高来郡の多良崎が見て烽火を揚げ、それを肥前三根郡の朝日山が見て烽火を揚げ、筑前・筑後の大名に知らせることにした(『鍋島直正公伝』)。
福岡藩では、この朝日山の烽火を、先ず御笠郡の天山がキャッチ、四王寺山−しょうけ越え−龍王岳−六が岳−石峯山の順に烽火を揚げ、豊前小倉領の霧が岳に伝えることにし、文化6年1月20日のテストに成功。先ず天山と四王寺山に烽火台を設置した。6か所の烽火台がすべて完成したのは10月のことであった(『黒田斉清譜』)。
藩校甘棠館(かんとうかん)の廃校で儒者から城代組の平士に落とされた亀井昭陽は、文化6年8月から7年11月までの間、6ヶ所の烽火台を次々に輪番で勤務し、詳しい「烽火日記」を残している。このうち文化6年10月の天山の烽火場勤務の一部を紹介しよう。
当番は亀井昭陽(15人扶持)・山口民平(10人扶持)・大西長助(14石3人扶持)の3名、いずれも城代組の下級武士で、勤務は10日間であった。なお山口民平(白賁)は亀井昭陽の妹婿で、元甘棠館訓導であった。文化9年(1812)になると、この烽火番制は北端の石峰と南端の天山の2ヶ所に「烽火場定番」一名ずつを常駐させることになっている。 遠賀郡藤木村石峰 烽火場定番 長冨藤右衛門(10石3人扶持)御笠郡下大利村天山 烽火場定番 山本小藤太 (15石4人扶持)いづれも無足組の藩士である。そして給米月一俵の「烽火場小使」が石峰に4人、天山に3人付けられている。
翌年12月には、山本小藤太支配の天山烽火場には見張り番人として鬼木利七・鬼木正右衛門・鬼木和作の3人が新規に雇用され、それぞれ4石2人扶持が支給されている。この3人は現地採用と考えられる(「文化九年郡方覚」)。
さて、この烽火番制度は結局何の役にも立たず、文化13年5月に廃止された。次の文書はこの時の天山烽火場撤去の際のもののようである(「近藤文書」)。
明十日六つ時揃いにて天山村より下大利村まで山本小藤太様御荷物運び人足、左の通り出方御才判成さるべく候 以上 大庄屋(以下欠)
さきの「郡方覚」に山本小藤太の肩書きが「下大利村天山烽火場定番山本小藤太」となっていたのは、天山烽火場は天山村だが、山本小藤太の役宅はそこから10キロも離れている下大利村にあったことを、この文書は語っている。 (近藤典二)
文化6年(1809)10月の日誌より
20日 天山に到着、幸蔵が世話をしてくれる。庄屋の家に風呂に呼ばれた。
21日 原左太夫と平嶋玲蔵が訪ねてきた。原左太夫は山家宿代官の子で、下役の箕形芳助を連れ、鶏と酒を持参した。
24日 原左太夫の招きで、大西長助と山家宿の脇本陣介于亭(かいうんてい)に赴き書を揮毫した。
25日 天山村の西方寺に参詣する。
26日 左太夫が猟犬を連れてくる。 阿志岐の安武大成が来る。安武は宰府在住の弟、亀井雲来の生徒である。
28日 秋月の藩校教授原士萌(古処)が吉田紀四郎・佐谷玄松をつれてきた。
29日 山歩きをする。展望が開ける。北は若杉山から、四王寺山、その向こうに志賀・玄界・能古の島々がきら めく博多湾に浮かんで見える。糸島半島の唐泊から吉井岳・雷山・背振・九千部・朝日・雲仙の山々が銀 の屏風のように並んでいる。広野には朝日・若江・下見・筑紫・原田・ 常松・永岡・二村・針摺・石 崎・萩原・山口・古賀・湯町・牛島・芦城・二日市の村々が見え る。烽所に着いた頃には腹も減り、 酔いも醒めた。酒屋のおやじが酒を持って来た。夕方、原士萌たちが明日は藩主の詩会だからと云って帰 っていった。二日市の医者中村養甫、山家の平嶋玲蔵、天山の生田良敬がやってきた
11月1日 里の人が別れに物をくれる。童男丱女(どうなんかんにょ)岩まで走って行き白い石に詩を書きつける。 村人の話では筑後の上妻郡にも同じものがあり、徐福将軍が連れて来た童男丱女がここに移ったのだろ うと云う。交代の番人が来たので下山する。
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