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柴田城
柴田城は、天山(あまやま)地区字日焼にあります。城跡は標高338.9mの宮地嶽南麓の宝満川に面した、標高51mの独立丘陵上を占め、周囲の水田よりおよそ10m高くなっています。その場所は、天山集落の北に当り、江戸時代には城跡の南に博多街道が通り、西には宝満川に沿って宰府道が走っています。もともと筑後・豊後方面から筑前博多へ抜けるル−トはもとより、米ノ山峠を越え筑前から豊前方面へ至るル−トの分岐点という交通の要所に位置していることが分ります。この柴田城は、戦国末期に肥前勝尾城(鳥栖市)を本城とし、筑前・筑後まで勢力を振るった筑紫広門(ちくしひろかど)の持ち城で、『筑紫良泰筑紫家覚書』『筑前国続風土記』『古戦古城之図』『家系併伝記』などに、その様子が記載されています。
 まず『筑紫良泰筑紫家覚書』では、「……紹運・道雪ニ広門様御取掛被成、……宝満近所在郷ニ城々を被成取付、柴田城筑紫大和・木村備前、長岡城宗治部大夫、武蔵城馬廻侍六組被置候、組頭ハ帆足善右衛門其外五人被召置候、佐野城上野伊賀、牛頚城旗崎兵庫、白水城筑紫良甫在番被仕候」とあります。この記事からうかがわれることは、筑紫広門が、大友方の岩屋城主高橋紹運(
たかはしじょううん)、立花城主立花道雪(たちばなどうせつ)に対し、軍事行動を起こすにあたって、宝満城の近所在郷にその拠点となる柴田城、長岡城、武蔵城、佐野城、牛頚城、白水城などの城々を固めたことを指しています。また、これは天正(てんしょう6年(1578)日向耳川の合戦において、薩摩島津氏に大敗した大友方に対し、筑紫氏が攻勢を強めたことを物語るもので、この時期以降、広門は古処山(こしょさん)城主秋月種実(あきづきたねざね)とともに、しばしば太宰府方面へ出兵したことが知られています。
 『筑前国続風土記』では「天山村にあり、筑紫氏の端城にして、村山近江、其子弾正在城せり、是筑紫広門の旗下成。……」とあり、あわせて天正六年秋の柴田川の合戦の状況が記されています。『古戦古城之図』では「筑紫氏の端城にして村山近江守其子弾正在城せり」とあります。
 城跡は現在、畑・雑木林、墓地となっています。畑はほとんどが荒れており、城の痕跡をすぐには確認するのが困難な状態ですが、注意すれば曲輪(
くるわ)(防備のための平場)を中心に、周囲に堀や土塁を見出すことができます。

柴田川の合戦

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