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六部供養塔

●高山家宅地内にある「六部」さんについて

 「六部」さんは、江戸時代も日田街道で天山の辻であったと思われる 三叉路のところの下中組高山さん宅地にあります。

1「六部」について

  廻国(回国)とは、法華経(ほけきょう)、別名大乗妙典(だいじょうみょうてん)というお経を、 全国66ヶ国の著名な寺社に一部ずつ納めて歩く巡礼です。  彼らは 「六十六部」 あるいは単に 「六部」 と呼ばれました。白や灰色の衣を着て、お経が入った笈摺(おいずる)(厨子(ずし))を背負い、ひたすら歩くのです。六部を泊めるのは功徳になるというので、六部は民家に泊めてもらうこともありました。
 廻国塔は廻国納経を無事達成した記念に建てられましたが無念にも廻国中に他郷で亡くなった六部を葬り供養してあげた廻国塔もあるそうです。普通「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養」 というような字句が大きく刻まれています。


2 広辞苑には、六十六部 として記載されています。
諸国巡礼の一つ。書写した法華経を全国66ヶ所の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴する行脚僧。鎌倉時代に始まる。江戸時代には、俗人も行い、男女とも鼠木綿の着物に手甲、甲掛、股引、脚絆も同色のものを用い、死後の冥福を祈るため、鉦(かね)を叩き、鈴を振り、あるいは厨子を負い、家ごとに銭を乞い歩いた。 


3 天山高山宅地内にある「六部」さんと呼ばれている供養塔は、ここで亡くなったであろう 巡礼者の供養として墓として建てられたと思われます。 拓本を採って、読み解いてみますと次のように判読できます。


廻国俗名定八良 元岑如圓信士 E飯高郡丹生村 

明和□寅年□六月十一日


●国々を回って巡礼していた俗名定八良さんはEпi勢州)飯高郡丹生村 の出身であることがわかります。供養塔の裏面には建てられた年月日が彫られていて、明和とありますから、明和年間を調べると□寅年というのは□内に入る文字は庚の文字しかありません。明和年間で庚寅(かのえとら)年は明和7年(1770年)、□六月の□は、明和7年は閏六月があり□は閏と判読できるようです。とすれば、俗名定八良さんは明和7611日に亡くなられ、今年2008年ですから、228年前に、村人によって、手厚く葬むられ、供養されたと思われます。

●пi勢州)とは伊勢国 いせのくに で、かつて日本の地方行政区分だったの一つで、東海道に位置し、現在の三重県中央の大部分にあたります。ところが、調べてみると、明治時代の県郡制によると勢州飯高郡には、丹生村が存在していません。現在の松坂市に江戸時代のことや飯高郡に関することを問い合わせ中です。

228年前の廻国巡礼者を手厚く供養した村人の慈悲の心が今なお営々として受け継がれている天山の人びとのやさしさが伝わってくる心温まる史実です。

六部さんについて       下中組 高山スミ子さん

天山542番地(下中組)の高山スミ子です。

屋敷内に祀ってある『六部』さんについて、高山家が守り継いできたことや、代々言い伝えられてきたことを述べたいと思います。高山家では、代々、ご仏飯、お茶、お水、お花をかかさず、お供えしています。
言い伝えについては、亡父から聞いた話では、巡礼の方が、ここでなくなられたので祀ってあるということでした。『歯が痛いときには「六部」さんにお参りすると、痛みが治まる』と言っていました。私も、子どもたちに『痛いところがあったら、六部さんにお参りしておいで』と言っていました。

私も、井上さんから六部さんを調べたいと聞きまして、近くの長寿の方にも「六部」さんについてお聞きしましたところ、『古老から、「痛いところや歯が痛いときには六部さんにお参りすると治る」と聞いたことがある』と話されました。また、時には、他所からお参りされていたことがありまして、お供え物などもありました。また、杖なども入っていることもあり、どなたかが、杖をついていたのが治って、杖が要らなくなり、お礼においていかれたのではないかと思いました。

 以前は、木造のお堂でしたが、古くて、台風等で痛みがひどかったので、昭和41年ごろ亡父と息子の康親さんとで、今のブロック造りのお堂にされました。

 今、思うに父から詳しく聞いておけばよかったなあとつくづく思っています。
●お堂の横の桜について 
 写真の桜は、平成12年にあまりに老木になり枯死寸前でしたので、切ったということでした。

昨年ごろから、若木が目をふき、老木の中に根を出して、世代交代している八重桜です。

 桜原種の山桜や薄墨桜ではないので、致し方ないと思われますが、碑文の明和庚虎年(1770年)に植樹されたということであれば、200年余り年生きていたことにます。

  全国各地にある千年桜などは桜原種の山桜や薄墨桜です。改良種の吉野桜などは80年が限度だろうといわれています。天山の八重桜も何代も世代交代して今に生きていることになると思われます。


  六部」さんについて

(1)丹生村を調べるのに、供養塔に彫ってある「勢州飯高郡」は、あの有 名な松阪牛の生産地であ る現在の三重県松阪市に所属するのではないかと思い、松坂氏のホームページから「市長への手紙」として問い合わせしていましたところ、広報担当を通じて職員の「前崎美紀」様から次のような回答が寄せられました。

『ご質問の件を当市教育委員会文化課に確認しましたところ、現在の三重県多気郡多気町(市町村合併により多気町と勢和村が合併しました。)に「丹生」という地名があります。
  文化課曰く、明治頃までは旧勢和村は飯高郡であり、その後多気郡に移ったとのことですので、場所に関しましてはこの地を指すと思われます。
 その他の件につきまして、詳しい内容は多気町役場の方が適当と思われますので、お手数ですがそ ちらにご連絡の程、よろしくお願いいたします。
  なお、多気町役場のURL及び住所・電話番号は以下の通りです。
  電話番号  〒519-2181 三重県多気郡多気町相可1600 TEL: 0598-38-1111(代)』

(2)そこで、次に三重県多気郡多気町の総務課の大倉様に、天山の六部さんについての資料を送って調査を依頼しましたところ、送った資料を多気町の歴史資料館職員の塩谷さんに渡されまして、今、塩谷さんの方で調査してもらっています。大体のことは、電話でお聞きしました。何しろ江戸時代のことですから、該当する資料がないとのことでしたが、私が送った資料を資料館だより「はるか」に掲載して、ひろく言い伝えなどを掘り起こしてしていただくことになりました。

(三重県多気郡多気町は 人口15600人あまり、シャープ中小型向け液晶パネル事業所誘致)