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「とうろう」は「燈籠」・「燈篭」・「灯篭」とも書きますが、「灯籠」が一般的です。
灯籠はお寺や神社だけでなく、庭園には鑑賞用の雪見(ゆきみ)灯籠(45.1KB)(皇居二の丸庭園)があったりたいへん親しまれています。英語では灯籠をガーデン・ランタン( garden lantern )と呼んでいます。
その種類もいろいろありますが、一般的な春日(かすが)灯籠で各部の名称を紹介します。
「請花」は「受花」とも書かれます。「蕨手」は「わらびで」とも読みます。
正面に刻まれた文字
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正面に刻まれた文字
【中台に刻まれた文字】太宰府
【竿に刻まれた文字】天満宮
【基礎に刻まれた文字】
中連月D(Dは秋の異字体で「秋月」のこと)
左側に刻まれた文字
【竿に刻まれた文字】宿□王院
【基礎に刻まれた文字】三隅勘蔵、綿屋半三郎、油屋小七、問屋善三郎、楠屋又兵衛、二見屋平助、 蓙屋太七、錦屋市三エ門
右側に刻まれた文字
【竿に刻まれた文字】天保十四癸卯年八月建之
【基礎に刻まれた文字】坂田九平、木道与七郎、和多屋金七、荒木屋和一、□屋惣吉、豊後屋宗平、三笠屋嘉市
この石灯籠について、地元の天山の人たちには、詳しく言い伝えられていなかったようです。ある方によれば、『夜須の方から毎日灯をともしに来られた』というようなこととか、『大宰府まで行かなくてここでお参りしたことにしていた』とか、また、推測では、日田街道を通って二日市の宿場まで行かなくて、ここから分かれて阿志岐をとおり、原をとおって、直接大宰府に行く分かれ道に建てたとか言われてきましたが、誰が建てたのかはわかりませんでした。
刻まれている文字「D月」を読めなかったのが要因と思われます。そこで、筑紫野市の文化振興課の山浦さんにお尋ねしますと、刻まれている文字「D月連中」が「秋月」のことだと教えていただきました。
そこで早速、現在の甘木歴史博物館(以前は秋月歴史博物館)お尋ねしていろいろなことがわかってきました。
また、秋月歴史博物館への回答に天□□は天保か天明しかないことを助言いただいたので、拓本を採ったところ、建立年月日が判明しました。
この石堂灯篭は、秋月の商人が連合を作って「天保十四癸卯年八月」に建立したことがわかりました。天保十四年(1843)は、今から165年前のことです。
秋月の商人が、遠く天山の地に、わざわざ宣伝のため建立した理由とはいったいなんだったのでしょう。その時代の背景や商人の意気込み、また、石に刻まれた屋号の子孫達は今どうしてあるのかなど興味は尽きません。
● 送られてきた資料
【甘木市史「昭和57年発行」上巻
甘木市史編纂委員会第5編 近世 第6章 幕末期の動向】から 【 】は井上の注釈
『三隅十郎
三隅十郎は、庄三郎といったが後勘次郎と改め、家を継いで後は勘蔵と変え、維新後十郎と改めた。秋月藩の城下町秋月に生まれ、元結製造、諸貨物の販売を家業とした。山林や水田を所有する素封家で、屋号を楠屋と呼んだ。【石灯籠に楠屋又兵衛の文字が刻んである】
三隅家は黒田氏入国以前からの旧家で秋月の年行司を勤めた家であった。父勘蔵【石灯籠に三隅勘蔵の文字が刻んである人物ではないかと思う】は温良・篤実・勤倹でよく家をおさめた。遠藤家より妻を娶り、三男二女を設けたが、十郎はその長男で幼少の時より優れた素質の持ち主であった。藩の儒者に教えを受け二十一歳のとき魚町の組頭を命じられた。しかし、その当時父は年行司役で家事を専らにする者がないため、事情を具申して組頭の職を辞した。』
【以下の文章は父勘蔵【石灯籠に三隅勘蔵の文字がある人物ではないかと思う】の長男【庄三郎といったが後勘次郎と改め、家を継いで後は勘蔵と変え、維新後十郎と改めた十郎の活躍、生涯を述べたものである】
『嘉永のころ(一八四八〜一八五三)藩難を逃れて、筑前に在った工藤左門・北条右門と親しく交わり、国を憂うる志があった。安政五年(一八五八)【十郎23歳】月照が筑前に入ったのを迎え薩摩の工藤らと庇護した。また同郷の海賀宮門・戸原卯橘と往来して深く交わった。平野国臣が月照を薩摩に送ったのち筑前にひそかに帰った時、十郎を訪れている。十郎は我が家に留め、ねんごろにもてなし翌日涙坂まで送った。このように志士に宿泊の便を与え、あるいは旅費を寄付し心を尽くして庇護した。
五卿【三条実美・東久世通禧・三条西季知・壬生基修・四条隆謌】が大宰府に移ると【五卿の大宰府転座元治元年(一八六四)十郎32歳】水野溪雲斎・真木外記が密に実情を訴え、相談するところがあったが、よくその面倒を見た。
そのため慶応二年(一八六六)【十郎34歳】藩から処罰され押し込められている。三年六月父老い藩庁に隠居を願いでたので【家業を継いだのでこのとき勘蔵と改名したのではないかと思う】 処罰を解かれたが厳重に戒めて周旋することができなかった。
十二月には中町の組頭を命じられた。福岡藩の藤四郎が天下の形勢を訴え、海峡を渡って京に登ることを勧めたが、家事と父とを思い、思いとどまらねばならなかった。
新政府となり真木外記が浜田県知事(島根県浜田市)になると十郎も請われて浜田県少属となったが、一年余りで辞去した。その後郷里で殖産興業に尽くし、明治二十二年(一八八九)六月病にかかり五七歳で没した。
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