筑紫野市歴史資料館 筑紫野散歩より
今から約400年前の筑紫野市は、戦国時代の戦火(島津・大友)の復旧も進み、江戸を中心として徳川幕府による統治が始まろうとしていました。その一つとして、古代から交通の要衝として栄えた本市には、道路(街道)や宿場(街並)が整備されていきました。
その結果、江戸と長崎を結ぶ長崎街道(ながさきかいどう)(本宿通)(ほんじゅくどおり)には山家宿と原田宿ができ、福岡と日田を結ぶ日田街道(内宿通)(うちじゅくどおり)には二日市宿ができました。長崎街道は鎖国日本唯一の貿易都市、長崎から世界の文物や人々が往来し、街道周辺地の発展や近代化に多大な影響を与えたことでしょう。
一方、日田には、九州における天領(てんりょう)(幕府の直轄地)を支配するための西国郡代(さいごくぐんだい)が置かれたことから、政治・経済の中心地ともなりました。そのため、日田街道は、九州各地の諸大名をはじめ、文人や商人などの往来でにぎわいました。それに加え、諸大名の参勤交代が山家宿(筑紫野市)で合流したため、当地での交通量は九州では上位に入るといわれました。
また、そのきっかけとなったのは、文政8年(1825)3月、薩摩藩主島津斉興(しまづなりおき)の参勤交代(お下り)からです。筑前六宿(本宿通)を避け、木屋瀬宿から青柳宿や博多宿、二日市宿を経由するいわゆる内宿通りを利用する
ようになってから、西国の熊本藩主(細川氏)や久留米藩主(有馬氏)も加わり、二日市宿で宿泊や休憩をとるようになり、往来の数が逆転しました。最初の薩摩藩の通過の時は、二日市宿で昼の休憩をとり、針摺峠で小休止(御駕籠建場)(おかごたてば)、小鳥持(永岡)で野雪隠(のせっちん)(野外便所)をする予定である事を先触れが指示しています。
現在、市内で日田街道を復元すると、二日市中央通り(二日市宿)・紫・六地蔵(二日市東小学校付近)・石崎・針摺(針摺追分)・峠・小鳥持・宝満川・柴田城・天山・二(ふた)(夜須町)・大又(おおまた)(関番所跡)・間片(まかた)・石櫃追分(いしびつおいわけ)(夜須町)と以下の地図のようになり、90(実線)パーセント近くが残っていて、今なお市民の生活道路として利用されています。
(山野洋一)
●筑前朝との境界石塔 ●天山の町並み ●天山集落位置口の石灯籠
天山にも、商家が並び、油屋、饅頭屋、飴屋などの呼び名が近年まで残っていた。
もともと、鞭掛(現在、旧下組、下中組、上中組、旧上組)は、天山村(現在、村組と呼ばれている組)の枝村であった。天山の入り口には、長崎街道や日田街道を通って天満宮に参拝知る人々に宣伝する(いまの広告塔、当時は道案内燈篭を老舗の旅籠屋が共同で建てたのが残っています。
【石灯籠については『石灯籠のページ
朝倉軌道:朝倉軌道(あさくらきどう)は、1908年から1940年まで、福岡県朝倉郡を中心とした地域において軽便鉄道・乗合バス・貨物自動車による陸運業を行なっていた日本の企業である。中央軌道や両筑軌道といった周辺の鉄道会社を傘下に置くなどし、この地方の交通の中核にあった。
|